まりもこもこ【裏】

もこもこたる思いを書きます

卓球ブログを新設しました

知っている人は知っていると思うし、知らない人は知らないと思うのですが、私は卓球をする人です。

で、この度、卓球ブログを新設しました。

marimoko.net

卓球のお役立ち情報から小ネタまで、いろいろな記事を書いていこうと思っています。

 

このブログはこのブログで継続していきます。今後ともよろしくお願いします。

AWS障害に見る世界的なリスク~特定クラウドサービスへの集中が生み出すもの~

お久しぶりです。まりもこです。(なんだか香ばしいタイトルになっちゃいました)

Twitter等のSNSやニュース記事(例えばアスキー)で話題になっている通り、AWSの東京リージョンに障害が発生。いろいろなサービスに影響が起きている(いた)ようです。

これに関して、ちょっと思ったことがあるので書きます。

 

先んじて要点を述べておくと、

「特定のクラウドサービスに世界中の多くの人が依存することによる特有のリスクがあるのではないか?そしてそれは過小評価されているのではないか?」

ということです。

(私は2年くらいシステムエンジニアをやっていましたが、AWSをはじめとするクラウドサービスについては全くの素人・門外漢です。無知ゆえの考察かもしれないので、少しでも知識がある人からの指摘・批判を歓迎します。)

そもそも今回の問題って?

今回問題になったAWSとは、Wikipediaの記事によれば、

Amazon Web Services(アマゾン ウェブ サービス、AWS)とは、Amazon.comにより提供されているクラウドコンピューティングサービス(ウェブサービス)である。

 そして、「クラウドコンピューティング」とは、

 クラウドコンピューティングとは、ネットワーク、サーバ、ストレージ、アプリケーション、サービスなどの構成可能なコンピューティングリソースの共用プールに対して、便利かつオンデマンドにアクセスでき、最小の管理労力またはサービスプロバイダ間の相互動作によって迅速に提供され利用できるという、モデルのひとつである。このクラウドモデルは可用性を促進し、5つの基本特性と、3つのサービスモデルと、4つの配置モデルによって構成される。— アメリカ国立標準技術研究所

 ※原文が英語なので孫引きしています。ご容赦ください。

すごく大雑把にまとめると、AWSをはじめとするクラウドサービスとは、

「リソースの共有プール(サーバ等)に、(主にインターネットを通じて(?))アクセス可能なことによって提供されるサービス」のこと、と言えるかと思います。

AWSはこれの一種であり、AWSの東京リージョンと呼ばれる範囲に障害が起きたことによって、今回の問題が発生したようです。

なぜここまで広範囲に問題が派生したの?

上記のクラウドコンピューティングの定義にある通り、「共有プール」を利用しているから、言い換えれば、同じ資源をみんなで使っているからです。

簡単な話ですが、その同じ資源に問題が発生すれば、使用しているみんなに影響が出る可能性があります。そして、使用している人が多ければ多いほど、影響を受ける人の数もそれだけ多くなりえます。

AWSクラウドインフラ市場(PaaS,IaaS)で2018年度現在で日本一のシェアを誇るサービスであるため、当然その障害による影響も大きくなったわけです。

www.itmedia.co.jp

で、問題点は?

近年急速に進んでいる「クラウド化」。クラウド化は、個人・組織(特にインフラに力を割くことが難しい中小企業など)といったものの当事者的視点から見れば、リスクの低減に役立つ面もあります。

信頼できるクラウドサービスに頼ることによって、オンプレミス(自前で情報システムを持つこと)よりも、安定的に運用できるようになり、可用性(システムが継続して稼働できる能力)が高くなることがあるからです。

www.kddi.com

しかしながら、当事者というミクロな視点からはリスクの低減につながるとはいっても、国や世界といったマクロな視点から捉え直してみると、クラウド化はいわば「リスクの集約」といえるのではないでしょうか?

つまり、多くの人や組織がクラウドサービスに依存することによって、問題が発生した場合の影響範囲~国や世界に対する経済等への影響~が、非常に大きくなり、場合によってはクリティカルなものにもなり得る…といった懸念が、あるような気が私はします。

とりわけ、特定のクラウドサービスへの集中は、こうしたリスクが相当大きくなるように思われます(現状、クラウドサービスは一極集中とはいえませんが、少なくとも寡占化が進んでいるようです)。

クラウド市場は独占・寡占されるべきではなく、多様なサービスが利用されている状態が好ましい気がします。

想定される指摘①:クラウドに限った話ではないのでは?

ここで、これまでの私の主張に対して、次のような指摘が想定できます。

「多くの当事者が同じサービスに依存することで、規模の大きい問題が発生しうる」というのは、クラウドサービスに限った話ではないのでは?

そのとおりです。ただしこの指摘は、私の主張を批判するものというよりは、むしろ補強するものです。

例えば石油の場合を考えてみましょう。ひとつだけ、あるいは極めて限られた数の国に石油の生産を依存してしまうと、例えばその国と敵対してしまった場合に石油を調達できなくなります。そのため国はふつう、石油を調達できるルートを多くしたり、石油以外のエネルギーも使えるようにしたりと、リスクの分散を図ります。

クラウドサービスも同様に、世界中が少数のサービスだけに依存してしまうと、問題が発生したときに対応が困難になるでしょうし、リスクの分散が必要になるでしょう。

想定される指摘②:独占・寡占状態でもリスクの分散化は可能では?

また、次のような指摘も想定できるでしょう。

独占・寡占状態でもリスクの分散化は可能では?たとえば、サーバを遠隔地に分散させることで、災害等からデータを守ることができるではないか。少数の企業が市場を占めることは、必ずしもリスクの集約につながるものではないのでは?

 この指摘は、ある程度正当なものだと思います。現に今回のAWS障害も、分散化のおかげで(かどうかは確かではありませんが、今のところ)とりあえず日本だけに「とどまっている」ともいえます。ただ、ひとつのサービスが必ずしもすべてのリスクを分散化できるとは思いません。

というのは、情報システムならではの(?)問題があります。「サーバを遠隔地に分散させる」のように、物理的な要素であれば分散可能に思われます。問題なのは、物理的でなく論理的なもの、つまりプログラムのバグや設定ミスによる障害の発生です。

こうした瑕疵は、データセンター等の拠点をまたいで共有されるおそれがあります。すると、障害が同時多発的に発生することも、ありえなくはありません。

 

こうした懸念は世間に認識されているの?

さて、ここまでつらつらと述べてきましたが、こうした懸念は世間に認識されているのでしょうか?

とりあえずGoogleで「クラウド リスク 集約」等で調べてみたところ、私の懸念と同じような主張をする記事は見つけられませんでした。

これには2つの原因が考えられます。

  1. クラウドについて調べる人は基本的に「当事者」側の人であって、世界的な視点の記事は必要とされないので、検索にヒットしない
  2. そもそも私の論が誤っており、このような懸念はこの世界に存在しない

1だったら、クラウドサービスの独占寡占が生み出すリスクが、過小評価されている、あるいは見向きもされていないということになります。

世界的巨視的に物事考えている人が非常に少ないということであり、由々しき事態だと思うと同時にどこか悲しくなります。

2だったら、私の頭の悪さに悲しくなります。

(まあ、素人の私が考えつくことなんて、きっと既に多くの人が考えてはいるでしょうし、きっと2ですね。。)

【書評】意味の探求

大学時代の教授曰く、「人生についての本で、古典でないものを読みたいならとりあえずこれかなー」。

 とまあ、ちょっと自信なさげに勧められた本を、今更ながら読んでみた。

 

この本は、英国のオープン・ユニバーシティ(日本でいうところの放送大学みたいなやつ)における哲学教程のための教科書として執筆されたらしい。

 

『意味の探求』というタイトルは、「人生の意味の探求」を意味している。

この本を概要は序章に明確に書かれているので、少し長いが引用しよう。

 

 …本書の前半部(1章から4章まで)では、人生を無意味なものと考えさせやすい人生の様々な局面、苦しみや死、人類の目的に関する困難について論ずるつもりである。これらの事柄について考察することにより、私達は人生の価値やその「尊厳」に対して疑問を抱くように導かれるのだが、この点については4章、5章で論じる。人生に意味を見出すための一つの道は「自己実現」すなわち自分の本質的な性質に従って生きることである。本書の後半部(6章から10章)では、この自己実現をその主要なトピックとして取り上げる。そこでは、自然、社会、幸福、理由、自由という概念から導き出された「よい人生」を送るためにさまざまな処方箋が提示され、同時にアリストテレス、ルソー、カント、ミル、サルトルといった思想家たちの主張が再吟味される。

このようにあるが、実は少し注意が必要で、この本として「これが人生の正解ですよ」といったような明確な答えは、(残念ながら?)出てこない。

むしろ、「こういう考え方やああいう考え方があるけど、こういう問題があるので、あれもこれも正解とはいい難い」とか、「〇〇の考え方はこのような点で優れているが、この部分はダメだ」みたいな論述が結構延々と続くので、何か明確な答えを期待している人にとっては、何が正しいのだかわからなくてイライラさせられるかもしれない。

 

先述したとおり、この本はあくまで教科書である。おそらく、いろいろな思想家の考え方が浅く広く紹介し、「詳しいことは自分でさらに調べてね」というスタンスで執筆されている気がする。だから、人生論の哲学(ニッチな分野だが)の入門者が、これをササッと読んでみて、「この思想家の考え方に刺激をうけた」というものに対して、さらに学習を進めていくとよいと思う。

(そうすると、けっきょく大抵は古典に行き着いてしまうのだが笑)

 

個人的には、モーリツ・シュリックなる人物の考え方に、感銘というか共感を覚えた。

「生活に目的思考を参入させること、目的の網の目の中に取り込まれてしまうこと、それは人間が真に堕落する前兆である」(孫引き)

もし人生の意味が目的ではなく行為そのものにあるとすれば、言い換えれば、それ自身のためにあるとすれば、目的を追いかけるあまりに空虚な循環にとらわれることもなくなる(ただし、「それ自身のために」という言葉は、必ずしも判然としたものではない)。

目的のなさ、いわば「遊び」にこそ、ちょっとミソがある気がする。奇しくも、この本の一番最後は、この遊びに生きる人間、すなわちホモ・ルーデンスについて触れられている。これがこの本の一応の結論となっているので、実際に読んでいただきたい。

 

ゲラゲラ笑える阿澄さんのラジオをまとめてみる

僕はいわゆるアニメオタクでもないし、声優オタクでもない。今季のアニメを1本も観ていないことがその証左だ。

しかし阿澄佳奈さんのラジオについてに限っては、この10年間でかなり聞いてきた。世間で普通に聞ける阿澄さんのラジオ音声なら、少なくとも8割超は聞いているはずだ。これならオタクと名乗ってよい気がする。つまり「阿澄佳奈さんのラジオオタク」だ。

そういうわけで(どういうわけだ)、今回は阿澄佳奈さんの笑えて楽しいラジオをまとめてみようと思う。

 

阿澄さんのラジオの楽しさとは何か。それについては実際に聞いて感じ取ってほしい。

 

今回は独断と偏見でもって「笑い度」を単純に5段階に星をつけたいと思う。

(これは笑い方面に限ったものであって、そのラジオ全体の評価ではない。念の為。)

あと、すでに聴けなくなってしまっているものも多々あるが、それはあしからず。

 

【笑い度☆☆☆☆☆】

ひだまりラジオ・シリーズ

 http://www.aniplex.co.jp/hidamariradio/

 →皆さんご存知(?)。これは外せない。公式で全部聴ける(ラジオCD等は除く)。

  みなさん聴くべし。個人的には×365が特に好き。

アニスパ!272回

 →「浅野さんなんて声優業界から居なくなっちゃえばいいんだ!!」

 

【笑い度☆☆☆☆】

・えじけん!

鷲崎健のヨルナイト×ヨルナイト 2016年5月

アニスパ!252回

  →鷲崎健さんとの掛け合いは見事

・アニコムラジオ

 →藤原啓治さんとのラジオ

 

【笑い度☆☆☆】

 ・武装神姫RadioRondo

・ミナトタワー放送局

 →喜多村英梨さんとのラジオ

・にゃるラジ

・寝起きにポテトチップス

 →松来未祐さんとのラジオ

たまゆらじお

・ラジオどっとあい 阿澄佳奈のあすみのやすみは部屋のすみ

 

【笑い度☆☆】

・良子と佳奈のアマガミ カミングスウィート!

・あすみさん@がんばらない

・うみものらじお

 

【笑い度☆】

しゅごキャラ! じお

・GUILTY CROWN LOST XMAS RADIO COUNCIL

阿澄佳奈のキミまち!

 

以上。その他ゲスト回も含めるとまだまだあるが、とりあえずこれくらいに。

 

はてなブログ市民(銅)になった

朝起きたらこんなメールが届いてた。

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どうやらはてなブログを使い続けると、こういった類の栄誉(?)がもらえるらしい。ちょっとだけうれしい。

これを新しいモチベーションとして、ぽつぽつと適度に頑張っていこうと思う。

 

はてな界隈の事情通になりたいわけではない。そういう方面に首を突っ込むではなく、マイペースに。マイペースに。。

現実よりも夢のほうが充実してる件

人の夢と書いて儚いと読むが、果たしてそうだろうか。

私はやや快楽主義者寄りなので、もし夢の中が現実よりも充実してるしているなら、ずっと眠っていたいと思う。実際休日暇なときなどは、できるだけ積極的に昼寝をしている。特に眠いわけではなく、そうしているのが一番幸福な感じがするからだ。

夢の内容は、悪夢でなければなんでもよい。重要なのは、充実感。「ああ、私は今活き活きしているなあ」と感じるのが、仕事よりも、趣味よりも、夢の中なのである。

別にこれは悲しい話ではないと思う。むしろ人生のなかで一番の要素が夢というのは、ある意味で幸福なことではないだろうか。なぜなら単純に考えて、人生のなかで最も長く費やすことのできる活動といえば、睡眠にほかならないからだ。もちろん睡眠中ずっと夢を見ているわけではないだろうが、それでもかなりの長い間、自分の好きなことに時間を費やすことができているといえる。

死んでしまったら、おそらく夢を見ることもなくなる。その間にできるだけ多くの夢を見ようとすることは、何かいけないことなのだろうか。

【夢日記】徳川家康様大大パレード

かつてこんなことがあった。

国一番の権力と実力をもっているある男が、その実力で持って空を飛んでいると、突然訪れた老衰のために墜落してしまう。激しく地面に打ち付けたが、運の良さと胆力によってどうにか生き延びた。だが錯乱してしまった男は、周囲の人々や神々が自分に十分な敬意を払っていないと感じるようになり、突然の思いつきで神政の組織に押し入り、「我は徳川家康大権現様であるぞ」と言い放つ。慌てて対応した執政官は、「徳川家康様ぁ~!?」などと吃驚仰天し、男のために大々的なパレードを催すこととなった。

そのパレードでは金銀財宝をありったけ飾り、今後の国のことなど一切考慮にいれない豪華さでもって、国中をぐるぐると周りまくるものだった。そしてそのついでに、土地土地の神々をバッタバッタと殺していくという所業も含まれていた。

これに問題意識をもった弱小の神の某は、一計を案じる。休憩所でひとり過ごしていた偽徳川家康様の衣服を奪い取り、偽徳川家康様に化けて偽偽徳川家康様になることによって、自らがパレードの主役になった。そして金銀財宝をあたり一面にぶちまけると、どういう理屈でか、疲弊した国や神々が再生していき、再び平和で安定した国が訪れるようになった。

その数千年後、神も仏もいなくなった世界で、なぜか「第二回徳川家康様大大パレード」が開催される。今度はアンドロイドが人間を抹殺していったのだ。

(その後も色々と続いた気がするが、あんまり記憶が混濁しているのでここまで)