まりもこもこ

もこもこたる思いを書きます

一歩踏み出さないルール

いまここで、目の前にいる上司の前髪を毟ってみたらどうなるだろうとか。あるいはまた、駅のホームで待っているときに一歩大股で、線路側に踏み出してしまったらどうなるだろうとか。

こんなふうに、物理的にはそれを為すのはとても簡単なんだけど、精神的にはものすごいパワーが必要なことってありますね。そして、だからこそ私達の世界は成り立っているんだなあ、と感心してしまうことがたくさんありますね。

会社の休憩室の窓からは、とても大きな交差点が見下ろせる。そこでは数センチ数ミリの自動車が、ぶつかることなく行き交っている。自動車ひとつひとつに乗っているのが、ちゃんとひとつの意志をもった人間。みんながみんなぶつからないように、ある規則に従って、しかもちゃんとぶつからないでいる。すごいなあ。気持ち悪いくらいだなあ、と思ってしまう。

それにひきかえ、都会の道を歩けば、いろんな人にぶつかりそうになる。実際にぶつかる。舌打ちされる。嫌な気持ちになる。

この違いって、なんだろうと考えたとき。その答えは、やっぱり拘束力のあるルールの有るか無いか、なんだろうと思う。みんながみんな適切なルールにしたがって歩けば、きっともっと、ビルから見下ろす自動車たちのように、平和にぶつからずに済む。

でもなぜだろう、それはそれで、嫌だなあ。

追求すべき個性とは客観的である?

びっくりした。

ちょっとの間、このブログを放置してた(いや、結果的に放置しちゃっただけなんだけど)。

で、今日アクセス解析を見てみたら、なんと、グーグル検索やヤフー検索からこのブログへ飛んできた人がいるではないか!!?

一体何を検索してたどり着いたんだ。。(謎)

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ま、それはそれとして。

 

最近、仕事もうまくいかないし、つまらないし、趣味もあまり充実していない。あれもこれも駄目だと、「自分ってなんだ??」っていうありがちな悩みにはまりこむ。

つまりはアイデンティティーのプチな危機なので、ここで「個性とは?」ということを、なんとなくざっくりと書いてみようと思う。

 

まず前提として、Web上の辞典や、たまたま手元にあった『岩波哲学・思想辞典』を参照すると概ね、

「個性とは、ある人を他の人々から区別する性質」

と書いてある。

 

そんなことはわかっとる。

(もちろん『岩波哲学・思想辞典』にはもっと色々書いてあるけど、とりあえずおいとく)

 

 

問題は、その性質はどうやって決まるのか、その「決め手」だ。その候補を想像してみると、大別して次の3つがある。

 ①自分がこれだと思うもの(自分の頭の中の観念)

  例:「私は○○が得意だ」

    「私は○○から愛されている」

 ②自分の才気や経験等から醸し出されるもの(神秘的ななにか)

  例:文章や言動から滲み出る「その人っぽさ」

 ③明らかな成果や世間の評価(観測できるもの)

  例:テストの点数

    「この人は○○だ」という評価

 

上記3つはそれぞれ明らかに異なるものだが、これらどれも「個性」の決め手として語られうるものな気がする。

この3つのうち1つを採用するとしたら、あなたならどれを選ぶでしょうか?

 

「①自分がこれだと思うもの」を選ぶ人は、なんか意志が強そうね(小並感)。

ただねー。これでどうやって他者と「区別する」のか。難しいですね―。思ってるだけですもんねー。客観性が一切ない。

あるいは、人々のかかわりのなかでの「自分の役割」とすれば、これだというものを規定できるかもしれない。しかしこの種の個性は、そのかかわりから一歩外に出れば、意味を成さなくなる。まあ、それでもいいのかもしれないけど。

 

「②自分の才気や経験等から醸し出されるもの」は、なんか素敵ね(小並感)。

僕もこれを選びたい。選びたいが。。

これ自分にとって実感ないんですよねー。そして何より胡散臭い。

醸し出されるものって、一体なんなんだ。。

実は哲学・思想辞典には、この意味での個性が一番詳しく記されていたのだけど。それを読んでもやっぱり胡散臭い(ここらへん勉強不足なのだけどね。勉強しよう)。

 

 

最後の「③明らかな成果や世間の評価」は、なんか味気ないっすねー(やっぱり小並感)。

でも、これが一番なんというか、かっちりしてる。確実に存在しているし、自分でも実感を持ちやすい。

そして、「個性を得ようとして頑張る」なら、このタイプの個性を追求するべきだと思う。いや、このタイプの個性しか追求してはならない。

①や②を追求してごらんなさい。きっと「自分探しの旅」とか、「ただ悶々とする」くらいしか出来ません。その果てに何があるか。たぶん何もありません。

 

それでは①や②を蔑ろにしてよいかといえば、そんなことはないのです。

自分のなかで温めたり、他者から感じてもらえばよい。それで十分であって、追求する類のものではないのです。

 

とりあえずそんな感じ。

三日坊主を超えて

 

 勢いではじめてしまったこのブログ、とりあえず3日以上継続することに成功しました。

はい、もうこの時点で私は三日坊主ではない。偉い。惜しみない拍手を。

 

で、ブログをはじめたら誰もが気になるであろうアクセス数。

今はこんな感じです。

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1日平均15アクセスほど。

 

なんの計画性もなくはじめた割に、思ったよりはアクセスされているな、というのが率直な感想(えっ、私の目標低すぎ…?)。まあ、ほとんどがtwitterからのアクセスなので、知り合いの方が、ちょいちょい読んでくださっているんでしょうね。いやはやありがとうございます。

 

しかし、うーん。書きたいことを書きながら、アクセス数もアップさせたい。そのためにはどんな記事を書いたらよいでしょう。

 

はじめの2日はとても個人的な記事を書きました。そしたらアクセスは19件。

3日目はFGOイベを絡めて書きました。そうしたら少しはアクセス増えるかな、というほんのりとした期待もあったのです。その期待はハズレ。10件にとどまりました。

 

サンプル数が少なすぎるので確たることは言えませんが、話題性に乗じる記事を書いてもあまりアクセス数には結びつかない…のか?? うーん、まだ何とも言えないですね。

 

まあはじめたばかりですし、気楽に行きましょう。ある程度記事数が溜まってくれば、それなりにアクセスも増えるでしょう。たぶん。

ハーゲンダッツを食べたくなったのは空の境界イベのせい

買ってしまった。。

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高くて美味しいアイスクリーム、ハーゲンダッツ・ストロベリー味。

何が原因って、FGO空の境界イベントで、「ストロベリーアイスクリーム」(さすがに商品名ではない)をたくさん集めているうちに、まあ、ね。

 

ところで、まさかあのイベントでストロベリーアイスクリームを集めていながらにして、それがハーゲンダッツと知らなかった痴れ者は、まさか居ませんよね??

仮にそんな人が居たのなら、すぐに講談社文庫から出ている『空の境界』上・中・下を買って読んでください(ハーゲンダッツネタは上巻ですぐに出てきてしまいますが、まあそれは置いておいて)。ついでに映画も観て、その後は『魔法使いの夜』をプレイしましょう。蒼崎さんと蒼崎さんが出てきますので。

 

いろいろと宣伝してしまいましたが、FGOを楽しんでいる人の「大半」にとっては、読んだり観たりプレイしたりして損はしないエンターテイメントたちですよ。

(なぜ「大半」かといえば、FGOをプレイしているが「ストーリーはすべてスキップしている」という不届き者が知人にいたのです。まさかそんな極端なプレイスタイルの人がいるだなんて、、ちょっとショックでした)

 

さて、とりあえず少なくとも式さんが本加入するところまでは、イベントやりきろうと思います。さらば。

 

追伸:

セイバー式が出ましたやったー!

友だちが居なかっために取った賞

今週のお題「表彰状」

表彰よりも表象が気になる哲学徒の時代(?)。卒業論文で優秀賞的な賞をいただいた。ちなみに卒論テーマは表象とはまったく関係ない。

テーマは平たくいえば、「友達ってなんだろう?」というような、それだけ見れば中高生が書きそうなもの。それをアリストテレスさんのニコマコス倫理学Wikipediaにもニコ倫のページはあるが、イマイチなのでPhilosophy Guidesをリンク先にした)を背骨にして連連と書いた。

しかしけっきょく友人関係のリアルに迫るものが描けたかというと、そうは言えない。どちらかといえば、「完璧な人間どうしの完璧な友人関係とは何か」という感じものを追究する、なんだかドライなものになった。
まあアリストテレスさんが目指しているものがそんな感じだしね。仕方ないね。

個人的にはもうちょっとウェットでビチョビチョな感じの文章が書きたかったのだが、そのときの感受性と執筆意欲が間に合わなかった。じゃあいつなら書けたか――それは恐らく高校時代。
教室内のすべての人間について神経ピリピリさせて、今から考えれば周りはいい人がばかりなのにほんとうに友達がひとりもいなくて、ぼっち飯を貫いた。あの頃でなくては書けない文章があったような気がする。
湿った文章は破れやすくて、たぶん支離滅裂になって、賞はとれなかっただろうけれど、あの頃の感受性でもって卒論を書いてみたらどうなったのだろうという興味が、自分のことながら、ある。

いまとなっては帰らぬ感受性。人によって差はあれど、みなさん思い当たる節があるのでは?

まあそれはそれとして、そういった感受性の残滓が、この卒論のテーマを選ばせたわけで。
言い換えれば、友だちが居なかったことが単なる思い出に留まること無く、賞を取ることに結びついたのは、よかったな、と思うわけです。

藤岡藤巻とかいう何か

今週のお題「バレンタインデー」

 

バレンタインデーになると思い出す。藤岡藤巻という禁断のデュオ。

名曲、「

www.youtube.com

くわしくは語るまい。一度その耳でお聞きあれ……

 

 

大人になるってノスタルジー

 ひとは大人になって、例えば親元を離れて都会へ移り住んだ場合には、ふとした瞬間に故郷を思い出し、懐かしく思うことがあるらしい。言い知れぬ痛みが伴い、故郷に対する憧れを募らせる。このようなことを郷愁というのだが、郷愁を解析するにあたって、まずは大人になることとは一体どういったことなのかを考えてみよう。

 誰しもが、母から生まれる。そして大抵の場合は、主に母をはじめとした大人たちの庇護を受けて、しばらくの時期までは己の意思とは関係なく育てられる。ここで重要なのは、誕生した時点からある期間が経過するまでの人間は、自由に生きているのではなく、親からの作用によって、少なくとも部分的には、生かされているということである。別の言い方をすれば、子供は、自らの自由を自然的に親へと託すことによって、そのかわりに安全や成長のための糧を享受する、ということである。そのときに託された子供の自由は、親の自由と渾然一体となる。

 子供が自由を託し、親からの庇護を受けている期間というのは、短くはない。親を必要とせずに生きていくためには、身体的な意味だけではなく、精神的、経済的、その他の意味においても、相応の力を手に入れなければならない。そのために子供は、親のもとに十分な期間置かれることになる。しかし子供は一方で、成長過程で或る程度の力を手に入れたり、自意識を身に付けたり、家や周囲とは異なる世界の事について知ったりすることを通して、一種の憧れを抱くようになる。その憧れを分析すれば例えば、自らの力を試したいという挑戦心であったり、家族以外の他者との関わり気にする心配であったり、もっと広い世界を知りたいという希望であったりするのだが、結局これらは、ソトのものへの憧れが具体化したものなのであって、そこには必然的に、ウチから脱却したいという願望が伴う。このようなソト志向の憧れの心境を、私は、異国情緒と呼ぶ。

 異国情緒を持った子供は親の庇護下にあり、自由ではない。憧れを果たすためには、親のものと渾然一体となってしまった自由を切り離し取り返すことで、あるいは新たに自ら自由と呼べるものを作り上げることで、自由を独立させなければならない。このように、自らの自由を親などから独立させることを、自立と呼ぶ。異国情緒は、自立のための原動力となりえ、子供は次第に自立してゆく。そして完全に自らの自由を独立させ獲得し、自由の裏に潜む責任を背負うことが出来るようになったとき、彼はもはや子供ではなく、大人と呼ばれるようになるのである。

 そのようにして子供が大人となったとき、彼は存分にソトの世界を謳歌し、異国情緒は果たされる。そして、ソトで暮らすことが長くなるにしたがって、以前のソトはソトではなくなり、以前はソトであった場所への憧れは薄らいでゆく。なぜなら、ソトという観念は、当事者を中心にしたときにその当事者から「遠い場所」を指すのであって、当事者自身がその場所に近づいてしまえば、ソトではなくなってしまう。すぐに手が届くようなものに憧れは抱かない。憧れを抱く場合というのは、常に何らかの意味で遠いのである。

 以前のソトへの憧れが消失したとき、その人はその場所に満足し安住したり、あるいはまた別のソトを見出すことで憧れを抱いたりすることもあるだろう。しかしながらいずれにせよ、彼らは既に故郷から離れてしまっている。これは、たとえ実家暮らしであっても例外ではない。というのは、どんな暮らしをしている大人であっても、自立をしているのであれば、子供時代とは異なっている。子供時代には、自分の自由と親の自由は渾然一体になっていて、そのことによって守られていた。しかし一度自立してしまったら、その渾然一体の状況からは離れざるを得ないし、二度とそこに帰ることは出来ない。

 このような自分と故郷とが絶対的に離れてしまっている状況、及びその隔絶への気付きが、郷愁を芽生えさせる要因となる。郷愁とは、もはやソトとなってしまった故郷に対する憧れであるという点で、一部異国情緒と共通している。ただしまた一部では、両者は決定的に異なっている。それは、異国情緒は実際にソトに辿り着くことによって果たすことが可能だが、郷愁は故郷に足を運ぼうと何をしようと、果たすことは不可能であって、せいぜい慰めることしか出来ないという点である。この違いは、憧憬対象の性質の違いに起因する。異国情緒は未来への不確かな期待によるものであって、それゆえに達成の形は多様なのであるが、郷愁は過去への確かな信頼によるものであって、それゆえに達成の形は唯一に限定されており、しかもそれは、今はもう存在しないのである。