まりもこもこ

もこもこたる思いを書きます

大人になるってノスタルジー

 ひとは大人になって、例えば親元を離れて都会へ移り住んだ場合には、ふとした瞬間に故郷を思い出し、懐かしく思うことがあるらしい。言い知れぬ痛みが伴い、故郷に対する憧れを募らせる。このようなことを郷愁というのだが、郷愁を解析するにあたって、まずは大人になることとは一体どういったことなのかを考えてみよう。

 誰しもが、母から生まれる。そして大抵の場合は、主に母をはじめとした大人たちの庇護を受けて、しばらくの時期までは己の意思とは関係なく育てられる。ここで重要なのは、誕生した時点からある期間が経過するまでの人間は、自由に生きているのではなく、親からの作用によって、少なくとも部分的には、生かされているということである。別の言い方をすれば、子供は、自らの自由を自然的に親へと託すことによって、そのかわりに安全や成長のための糧を享受する、ということである。そのときに託された子供の自由は、親の自由と渾然一体となる。

 子供が自由を託し、親からの庇護を受けている期間というのは、短くはない。親を必要とせずに生きていくためには、身体的な意味だけではなく、精神的、経済的、その他の意味においても、相応の力を手に入れなければならない。そのために子供は、親のもとに十分な期間置かれることになる。しかし子供は一方で、成長過程で或る程度の力を手に入れたり、自意識を身に付けたり、家や周囲とは異なる世界の事について知ったりすることを通して、一種の憧れを抱くようになる。その憧れを分析すれば例えば、自らの力を試したいという挑戦心であったり、家族以外の他者との関わり気にする心配であったり、もっと広い世界を知りたいという希望であったりするのだが、結局これらは、ソトのものへの憧れが具体化したものなのであって、そこには必然的に、ウチから脱却したいという願望が伴う。このようなソト志向の憧れの心境を、私は、異国情緒と呼ぶ。

 異国情緒を持った子供は親の庇護下にあり、自由ではない。憧れを果たすためには、親のものと渾然一体となってしまった自由を切り離し取り返すことで、あるいは新たに自ら自由と呼べるものを作り上げることで、自由を独立させなければならない。このように、自らの自由を親などから独立させることを、自立と呼ぶ。異国情緒は、自立のための原動力となりえ、子供は次第に自立してゆく。そして完全に自らの自由を独立させ獲得し、自由の裏に潜む責任を背負うことが出来るようになったとき、彼はもはや子供ではなく、大人と呼ばれるようになるのである。

 そのようにして子供が大人となったとき、彼は存分にソトの世界を謳歌し、異国情緒は果たされる。そして、ソトで暮らすことが長くなるにしたがって、以前のソトはソトではなくなり、以前はソトであった場所への憧れは薄らいでゆく。なぜなら、ソトという観念は、当事者を中心にしたときにその当事者から「遠い場所」を指すのであって、当事者自身がその場所に近づいてしまえば、ソトではなくなってしまう。すぐに手が届くようなものに憧れは抱かない。憧れを抱く場合というのは、常に何らかの意味で遠いのである。

 以前のソトへの憧れが消失したとき、その人はその場所に満足し安住したり、あるいはまた別のソトを見出すことで憧れを抱いたりすることもあるだろう。しかしながらいずれにせよ、彼らは既に故郷から離れてしまっている。これは、たとえ実家暮らしであっても例外ではない。というのは、どんな暮らしをしている大人であっても、自立をしているのであれば、子供時代とは異なっている。子供時代には、自分の自由と親の自由は渾然一体になっていて、そのことによって守られていた。しかし一度自立してしまったら、その渾然一体の状況からは離れざるを得ないし、二度とそこに帰ることは出来ない。

 このような自分と故郷とが絶対的に離れてしまっている状況、及びその隔絶への気付きが、郷愁を芽生えさせる要因となる。郷愁とは、もはやソトとなってしまった故郷に対する憧れであるという点で、一部異国情緒と共通している。ただしまた一部では、両者は決定的に異なっている。それは、異国情緒は実際にソトに辿り着くことによって果たすことが可能だが、郷愁は故郷に足を運ぼうと何をしようと、果たすことは不可能であって、せいぜい慰めることしか出来ないという点である。この違いは、憧憬対象の性質の違いに起因する。異国情緒は未来への不確かな期待によるものであって、それゆえに達成の形は多様なのであるが、郷愁は過去への確かな信頼によるものであって、それゆえに達成の形は唯一に限定されており、しかもそれは、今はもう存在しないのである。