追求すべき個性とは客観的である?
びっくりした。
ちょっとの間、このブログを放置してた(いや、結果的に放置しちゃっただけなんだけど)。
で、今日アクセス解析を見てみたら、なんと、グーグル検索やヤフー検索からこのブログへ飛んできた人がいるではないか!!?
一体何を検索してたどり着いたんだ。。(謎)
ま、それはそれとして。
最近、仕事もうまくいかないし、つまらないし、趣味もあまり充実していない。あれもこれも駄目だと、「自分ってなんだ??」っていうありがちな悩みにはまりこむ。
つまりはアイデンティティーのプチな危機なので、ここで「個性とは?」ということを、なんとなくざっくりと書いてみようと思う。
まず前提として、Web上の辞典や、たまたま手元にあった『岩波哲学・思想辞典』を参照すると概ね、
「個性とは、ある人を他の人々から区別する性質」
と書いてある。
そんなことはわかっとる。
(もちろん『岩波哲学・思想辞典』にはもっと色々書いてあるけど、とりあえずおいとく)
問題は、その性質はどうやって決まるのか、その「決め手」だ。その候補を想像してみると、大別して次の3つがある。
①自分がこれだと思うもの(自分の頭の中の観念)
例:「私は○○が得意だ」
「私は○○から愛されている」
②自分の才気や経験等から醸し出されるもの(神秘的ななにか)
例:文章や言動から滲み出る「その人っぽさ」
③明らかな成果や世間の評価(観測できるもの)
例:テストの点数
「この人は○○だ」という評価
上記3つはそれぞれ明らかに異なるものだが、これらどれも「個性」の決め手として語られうるものな気がする。
この3つのうち1つを採用するとしたら、あなたならどれを選ぶでしょうか?
「①自分がこれだと思うもの」を選ぶ人は、なんか意志が強そうね(小並感)。
ただねー。これでどうやって他者と「区別する」のか。難しいですね―。思ってるだけですもんねー。客観性が一切ない。
あるいは、人々のかかわりのなかでの「自分の役割」とすれば、これだというものを規定できるかもしれない。しかしこの種の個性は、そのかかわりから一歩外に出れば、意味を成さなくなる。まあ、それでもいいのかもしれないけど。
「②自分の才気や経験等から醸し出されるもの」は、なんか素敵ね(小並感)。
僕もこれを選びたい。選びたいが。。
これ自分にとって実感ないんですよねー。そして何より胡散臭い。
醸し出されるものって、一体なんなんだ。。
実は哲学・思想辞典には、この意味での個性が一番詳しく記されていたのだけど。それを読んでもやっぱり胡散臭い(ここらへん勉強不足なのだけどね。勉強しよう)。
最後の「③明らかな成果や世間の評価」は、なんか味気ないっすねー(やっぱり小並感)。
でも、これが一番なんというか、かっちりしてる。確実に存在しているし、自分でも実感を持ちやすい。
そして、「個性を得ようとして頑張る」なら、このタイプの個性を追求するべきだと思う。いや、このタイプの個性しか追求してはならない。
①や②を追求してごらんなさい。きっと「自分探しの旅」とか、「ただ悶々とする」くらいしか出来ません。その果てに何があるか。たぶん何もありません。
それでは①や②を蔑ろにしてよいかといえば、そんなことはないのです。
自分のなかで温めたり、他者から感じてもらえばよい。それで十分であって、追求する類のものではないのです。
とりあえずそんな感じ。